~ 北九州/筑前の少弐氏 ~ シリーズ:日本の歴史本を読んでみて
大内氏・毛利氏・大友氏などこれまで読んできた一族の歴史には、必ず少弐氏が関わってくる。少弐とは太宰少弐で太宰府の官職名である。なぜ官職名が氏になったのであろう。九州の歴史に少弐氏を無視することはできないようである。 太宰少弐の武藤資頼(すけより) 少弐とは、に太宰少弐と呼ばれる平安期の大宰府の公家の官職である。長官は太宰帥で大弐と少弐は次官の立場だったようだ。 太宰府は、九州九カ国(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩)と2島(壱岐・対馬)を管轄する役所で大きな権限を有していた。 後世に氏として少弐と呼ばれているのは、武藤氏のことである。 武藤氏は、藤原北家の後裔で、藤原秀郷または関白藤原道長の流れを汲むとされている。この武藤一族の武藤頼平の猶子になったのが、武藤少弐氏の祖と言われる武藤資頼である。資頼自身の出自は不明だ。 ちなみに、武藤頼平の兄は、近藤能成といわれ、大友氏の祖大友能直の実父といわれる人物である。ということは、大友能直も藤原秀郷の流れということか、母方の祖父波多野経家も藤原秀郷の流れと言っている。 武藤資頼は、平家の勇将平知盛の武将であったが、一の谷の合戦のとき源氏の梶原景時に投降し家人になったといわれる。源平戦の後は、三浦義澄に預けられていたが、後に平家与同の罪を許されて御家人となっている。そうとう優秀な人物であったようだ。 九州は、平氏政権の時には重要な地域であった。平氏を支持した地頭・豪族が多かったことから、頼朝はこれらを統率する出先機関の設置を痛感し、文治2年(1186)に伊豆の御家人の天野遠景を鎮西奉行(鎮西守護)として太宰府に送りこんだ。 遠景は、豪族の狼藉を収めたり、平氏の残党を征伐するなど活躍したが、在地の御家人の協力が得られず、遠景の不法専断に対する寺社等の反発もあり建久5年(1194)に頼朝に奉行職を解任されている。 建久6年(1195)頃に、後任の鎮西奉行として、武藤資頼が任命され太宰府に下向した。同時に、中原親能(大友氏の祖大友能直の養父)も任命されたというが、時期は不明だ、武藤資頼より先に任命されていたともいわれる。 後に、中原親能の養子大友能直が鎮西奉行になっている。これは中原親能から継承したようだ。武藤資頼に西方奉行人と書かれた文書もあることから、それぞれが東西の鎮西奉行であったようだ。 九州に派遣された資頼は、肥前・筑前・豊前・壱岐・対馬の守護にも任じられている。(時期はずれている)大友能直は、豊後の守護に任じられている。これも中原親能から継承したものと思われる。 資頼は、筑前の有力な平氏の武将であった原田種直の旧領の大半を幕府から与えられている。他にも多くの所領が与えられたことは推測される。 在地の国人衆から領地を取られた怨みや、さらに平家の武将から寝返って源氏に就いた身であることなど九州の源氏諸将の反発が強かったと思われる。 承久の乱後の嘉禄2年(1226)に、武藤資頼は、太宰少弐に任官された。公家の官職に御家人武将が任命されたのは初めてである。これは、承久の乱で幕府の権力が朝廷を凌駕するようになったことによるものだろう。 武藤資頼は、安貞2年(1228)8月に69歳で没している。資頼以降の武藤氏は、与えられた所領を分割相続して多くの一族を生み出していった。 閉じる 元寇(文永の役) 少弐資能(すけよし) 資能が、父の後を受け鎮西奉行に任じられたのは、貞永元年(1232)、太宰少弐には、なんと25年後の正嘉2年(1258)であった。少弐資能と名乗ったのは、太宰少弐に任じられてからなのか任官以前からなのかわからない。 文永5年(1268)に、蒙古の使者から国書を呈された資能は、鎌倉に送るが幕府(朝廷もか)は、返書を出さなかった。その後、6回に及び招論使(義兵を募集する役)を送ってきたが、遂に幕府と朝廷は応じていない。 この強硬な外交方針に、現場の責任者として資能は恐らく相当な苦悩であったと思われる。蒙古軍が攻めてくるとすれば、九州北部の筑前など資能の守護領国であった。 文永9年(1272)には、大友頼泰が蒙古の襲来に備え鎮西奉行として幕府の命で下向してくる。翌年11月に、資能は、幕命として北九州各国の国人衆に動員令を発している。 文永11年(1274)10月5日、元軍は対馬に上陸、守護代宗助国以下が玉砕した。14日には壱岐に上陸、守護代平景隆以下が戦死している。16日には、平戸島・鷹島・能古島に襲来し領主の松浦氏は数百人が伐たれ、対馬や壱岐と同じ悲惨な状態になった。 19日に博多湾に侵入し今津に上陸、翌20日に、日本の守備軍と戦闘になった。日本軍には、北九州の御家人・国人武将だけでなく、薩摩・日向・大隅など南九州の御家人・国人武将も動員されていた。また神社仏寺の司まで馳せ集まったと言われる。 形骸化していたとはいえ朝廷から任命された太宰少弐としての権威、幕府の特命権者である鎮西奉行、さらに戦闘地域の守護職として少弐資能の役割は重要であった。 資能は、職務を発揮する機会が到来したとも、発揮せざる得なかったともいえるが、時に77歳であった。総大将は子の少弐景資(二男)だった。 20日の戦闘は、戦闘能力に大きな差があり、日本軍の果敢な抵抗にも関わらず、太宰府の入り口である水城まで後退せざるを得なかった。 だが、元軍は陸上に夜陣を敷かず、そろって軍船に引き上げたのである。だが一夜明けてみると元軍は博多湾から姿を消していたらしい。 理由はいろんな説があるが元軍の作戦上の撤退と思われる。台風により元軍が壊滅的な打撃うけたというのは、作り話のようだ。 閉じる 元寇(弘安の役) 少弐経資(つねすけ) 翌年に、元からの使者が国書を携えてやってきたが、幕府は一行を全員処刑している。国書の内容は、「前回は本気ではなかったが次回は本格的に攻めるぞ」との脅しであったと言われている。幕府は、断固とした態度を示すとともに、逆に高麗へ侵攻の準備を少弐経資に命じている。 経資が、父資能から太宰少弐と肥前・筑前・豊前・壱岐・対馬の守護職などを譲られたのは、文永12年(1275)2月頃だった。 弘安2年(1279)3月に幕府は、鎮西奉行の少弐経資・大谷頼泰に、九州全土の御家人たちを博多に集め防塁を築くことを命じている。 弘安2年(1279)6月にも使者が来日しているが、これも全員処刑している。前回の処刑が元には伝わっていなかったという。同じ頃、南宋帝国が元に滅ぼされている。元の大規模な再襲来は避けられない状況になったいた。 弘安4年(1281)6月、元軍が再度襲来した。元と高麗の東路軍が兵4万と軍船500艘、南宋の江南軍が兵10万と軍船3500艘と言われる。 東路軍は、江南軍を待たず、単独で上陸しようとしたが、既に博多湾周辺は防塁が築かれていたので断念し志賀島に上陸し占領した。 しかし日本軍との攻防に敗れ壱岐島へと後退し江南軍の到着を待つことになったが、江南軍はなかなか現れず撤退論も出たという。 6月29日に、日本軍は壱岐島の東路軍に対して数万の軍勢で攻撃をかけた。激戦が交わされ日本方が優勢になったのと、江南軍が到着したとの知らせを受け、東路軍は壱岐を捨て江南軍と合流すべき平戸島に向かった。 この壱岐での戦いで、少弐氏は資能の孫の資時が戦死し、資能も負傷している。資能は、その傷が元で翌月に享年84歳で死去している。 合流した元軍は、太宰府へ進撃を目指したが、鷹島沖で進軍を停止し、鷹島に上陸し土城を築くなどして日本軍の攻撃に備えていた。 ところが7月30日夜半、台風が襲来し、元軍の軍船4千艘は暴風雨にあって、ほぼ全滅という状態になった。高麗史によると、士官や将官の死亡率は70~80%、兵は80~90%という無残な状態だったようだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 元軍14万、対する日本軍は九州にいた約7万と六波羅探題からの救援兵6万がすでに長府に到着していた。幕府はさらなる増員も考えていたようだ。もし台風がなく、元軍が上陸していたら、壮絶な戦いになっていたと思われる。 北九州に台風は、この時期に年に3回ほど来る、元軍がこの周辺にいたのは約2ヶ月、偶発的な台風ではなかった計算だ。 この2回の蒙古襲来に対する少弐氏の奮闘は相当なものであったと思われる。戦後の恩賞配分は少弐経資と大友頼泰によって処理されている。 ただ、少弐経資は現地の守護職であり、大友頼泰は同じ鎮西奉行だが、豊後の守護職であり責任の度合いは随分違ったと思われる。 弘安7年(1285)に執権の北条時宗が死去し、北条得宗家は有力官僚の平頼綱と御家人武将たちが対立する状態になった。翌年に御家人派の頭領安藤泰盛一統が粛清され官僚派が勝利した。(霜月騒動) 九州では、少弐景資と肥後守護の足立盛宗が御家人派、少弐経資は立場上官僚派となった。経資は、肥前守護の北条時定とともに岩門城に籠る弟景資を攻撃し討っている。(岩門合戦) 正応2年(1289)に、経資は64歳で死去したという。蒙古襲来という日本史上に特筆すべき出来ごとの最大の功労者なのに、墓所も菩提寺もわからないというのは奇怪千万だと渡辺文吉氏は訴えている。 閉じる 北条氏の九州進出 少弐盛経(もりつね) 盛経は経資の長子と思われ、各国の守護職を相伝したのは正応3年(1291)であった。35歳ぐらいと思われる。盛経の時代でも蒙古襲来に対する非常事態は続いていた。 永仁元年(1293)に、北条兼時と時家が軍監として鎮西に下ってきた。さらに永仁5元年(1297)には、北条実政が初代の鎮西探題(後の九州探題)として赴任してきている。 九州に北条得宗家の進出が際立ってきた。北条氏の存在は、少弐氏や大友氏など九州の在地御家人には厄介な存在だったが従わざるを得なかった。 盛経の守護職も豊前・肥前が召し上げられ、筑前と二島のみになっていった。少弐氏苦悩の時代であった。 閉じる 鎌倉幕府の滅亡と建武の新政 少弐貞経(さだつね) 貞経が家督を継いだがいつかは、まったく伝わっていない。 後醍醐天皇による倒幕が始まった元弘3年(1333)3月頃の太宰府では、役人や御家人達が北条氏の支配に不満が募っていたので、天皇の挙兵に喝采を送ったと言われる。少弐貞経も恐らく同じ気持ちだっただろう。 しかし、倒幕方として肥後の菊池武時が挙兵し同調を求められた貞経は、畿内では倒幕方が不利との情報を信じこれを拒否し、同じく拒否した大友貞宗とともに鎮西探題の北条英時に仕え、菊池武時を討ってしまった。 だが、同年5月に足利尊氏が京の六波羅探題を攻略したのが九州に伝わると、貞経は一転し北条英時から離反すると島津氏らと共に姪浜城に英時を攻めこれを攻め滅ぼした。 実はこの3日前に鎌倉幕府は新田義貞に攻撃され滅亡していたが、貞経が知っていたわけではない。 天皇による建武の新政は成ったが、公家中心の政権に反発した多くの武士の中から足利尊氏が後醍醐天皇に叛逆した。建武2年(1335)7月に北条氏の遺児が起こした中生代の乱を鎌倉で平定した尊氏は、西上し箱根で官軍を破り京都に進軍した。 だが京都で官軍の総攻撃に合い敗退する。尊氏は、九州に落ち延びた。なぜ九州だったのかは謎だが、九州三強いわれた少弐氏・大友氏・島津氏の源家恩顧の武将達の存在があったことは間違いないだろう。 建武3年(1336)2月、太宰府の居城有智山城にいた貞経は、菊池武敏や阿蘇惟直ら南朝方に攻め込まれた。嫡男頼尚が尊氏を出迎えに宗像方面に出ていた隙を付かれたのだ。 2月29日、有智山城は落城し貞経は自害した。享年65歳だった。 閉じる 足利尊氏と少弐頼尚(よりひさ) 多々良浜の戦い 頼尚の前半生もよくわからない、父貞経が死去したときは42歳だったといわれる。 建武元年(1334)3月に、豊前守護の糸田貞義と肥後守護の規矩高政(北条英時の養子)が北条の残党を結集し新政権に叛旗を翻した時、少弐頼尚は規矩高政を、大友貞載が糸田貞義を誅伐している。4ヶ月にわたる大反乱だった。 このとき頼尚は、宮軍として行動している。さらに、翌年正月に北条の残党が長門の国府城に叛乱の兵を挙げたのを、頼尚は平定している。 建武3年(1336)2月に、京都で敗れ九州に逃れてきた足利尊氏一行を、頼尚は筑前芦屋で出迎えた。宮方は、菊池氏に尊氏討伐を命じた、肥後にいた菊池武敏は、頼尚がいない隙きをつき太宰府有智山城を攻め落城させた。 3月1日、少弐軍は那珂郡諸岡原で官軍を防いだが圧倒的な菊池軍に押され全員玉砕した。尊氏に付き従っていた頼尚はこの情報を伝え聞いたが味方を鼓舞するために否定したという。 筑前の多々良浜に布陣した宮方は、九州の諸豪族の大半を味方につけ軍勢は2万騎以上で、主力は菊池軍だ。対する、尊氏方は約2千騎に過ぎなかった。主力は少弐軍であった。(多々良浜の戦い) 緒戦は宮方の菊池軍が優勢であったが、菊池軍に大量の裏切りが出たため戦況は逆転し菊池軍は総崩れで敗走し、阿蘇惟直は戦死した。 国人衆たちに大量の裏切りが出た要因は、彼らは当時の情勢判断から宮方が有利と見て味方していたが、菊池武敏や阿蘇惟直のように朝廷のために戦ったわけではなかった。 もともと、公家中心の新政に不満のあった武将たちであり、菊池氏は九州の古くから豪族だが、守護職に就いたことは一度もなく、鎌倉御家人でもない。 一方、足利尊氏は源氏の新しい棟梁であり、少弐氏や大友氏は代々多くの国の守護で源氏恩顧の家柄だ。こういった心理が働き、多少でも尊氏軍に有利な情勢が見えれば流れをうって寝返ったのだろうと言われている。 この多々良浜での戦いの後、足利軍は筑後まで進出し、一ヶ月後には九州全域を掌握している。4月、足利軍は博多湾を出て京都に進軍をはじめた。 少弐頼尚は陸路の先鋒となり2千の精鋭を率いて山陽道を上った。5月の摂津湊川の合戦では、頼尚は奮戦し楠木正成勢を崩壊に追い込み正成を自害させている。 こうして足利尊氏は京に入った。後醍醐天皇は比叡山に籠城したが、やがて陥落した。 その後、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を興す。尊氏も新たに光明天皇を擁立し、北朝政権を樹立した。こうして南北朝時代に突入していく。 閉じる 南北朝時代の少弐氏 少弐氏や大友氏が、九州の戦いで最大の功労者だったことは間違いなかったが、将軍尊氏は、一色範氏を九州探題と肥後守護に任命した。 このことは、またも少弐氏や大友氏をはじめ九州在地御家人との確執を生むことになったいく。特に、少弐氏は太宰府に本拠を置き、筑前守護を世襲している。地理的にも近い九州探題に強く反発した。 正平3年(1348)に、後醍醐天皇の皇子懐良親王が南朝の征西大将軍として肥後の菊池氏に迎えられ九州に下向している。この頃、少弐頼尚は肥後守護に命じられているが、肥後の南軍に対応させるためと思われる。 翌年、幕府の実権を巡り対立していた尊氏の弟直義に対し執事の高師直・師泰兄弟が尊氏を擁してクーデターを起こした。(観応の擾乱) 事件を知った直義の養子直冬(尊氏の実子)は、備後にいて兵を集め上洛しようとしたが、尊氏方の討伐に追われ九州に逃れてきた。 尊氏方が北朝の正統の政権を主張すれば、少弐氏や大友氏などは反探題の立場から直冬に味方せざるを得なかった。これより数年の間、全国で南朝方・北朝尊氏方・直冬方(佐殿方)の三勢力が合同と離反を繰り返していった。 だが、直冬には中央の後ろ盾がなく、味方していた国人衆もやがて離反し、正平7年(1352)11月に長門に去っていった。しかし頼尚は、反探題への対抗意識から、翌年3月に南朝方と連合し、太宰府南方の針摺原で一色探題を大敗させている。 正平13年(1358)には、尊氏が死去したが、南朝方も支柱であった北畠親房が没すると九州を除く勢力は衰微していった。 正平14年(1359)8月、筑後川をはさんで南北朝が戦った大保原の合戦(筑後川の戦い)は、日本三大合戦の一つとわれる大きな合戦だった。 南朝方は懐良親王を擁した菊池武光など約4万で筑後川の北岸に陣をはり、南岸には、北朝方の少弐頼尚・直資の父子・大友氏時など約6万で対峙した。 両軍、壮絶な戦いを演じたようだ、最後は菊池武光の奇襲作戦により南朝方が勝利している。北朝方は太宰府に逃れたが、南朝方も懐良親王や菊池武光が負傷し損害も大きく追撃することは出来なかったという。 この合戦で、少弐氏は、嫡子の直資・甥の頼泰など一族28名、郎党500名の戦死者を出し壊滅的な大敗北であった。 閉じる 少弐氏最大の危機(水島の変) 少弐冬資(ふゆすけ) 大保原の合戦で戦死した直資が頼尚の嫡男であったと思われるが、例によって少弐氏の家族構成と家督継承はよくわからない。 頼尚から家督を継いだと思われる冬資は、その名から足利直冬より偏諱を受けたと思われる。弟の頼澄の方が嫡子であったのではないかとの説もある。頼澄は、早くから父や兄と袂を分かち南朝方で戦っている。 正平16年(1361)7月、菊池武光は南朝軍を指揮し自ら出陣し太宰府を制圧した。8月には抵抗を続けていた少弐氏も本拠地の有智山城を放棄して豊後の大友氏の元へ落ち延びた。懐良親王は大宰府に入城し九州は南朝の支配下に入った。 正平17年(1362)、冬資は新たに派遣された探題の斯波松王丸を援けて、菊池武光が豊後の大友氏征伐に出陣中の太宰府を奇襲した。 しかし菊池武光が駆け戻って探題・少弐軍を討ち破り、冬資らは豊後に敗走した。翌年探題の斯波松王丸は京都へ逃げるように帰還している。 正平22年(1367)に冬資と父頼尚は京している。冬資は、3年後の応永3年(1370)に九州に戻ったが、頼尚はその翌年に京で享年78歳で死去している。 冬資たち父子が上洛した頃に、良成親王が征西将軍宮懐良親王の求めで九州に入り、九州の南朝勢力の中心になっていた。 これに対し3代将軍義満は、応安4年(1371)10月に、大内氏や毛利氏など中国地方の国人衆を招集し今川了俊(貞世)を九州探題として九州に下向させた。 九州に入った今川了俊は、在地の国人衆を糾合し三方から太宰府への進撃を始め、翌応安5年(1372)8月に太宰府は陥落させている。 懐良親王と菊池武光らは筑後に追放され、その後に南朝方は猛将の菊池武光が没するなど勢力は衰退したいった。 了俊に従った冬資は11年ぶりに太宰府に入ることができた。 了俊は、本拠の肥後に戻っていた菊池氏を追い、永和元年(1375)8月、肥後の水島に陣を張ると、大友親世・島津氏久・少弐冬資の3氏に来援を求めた。 だが、冬資は探題の了俊に警戒の念を持っていたので容易にこれに応じなかった。しかし島津氏久の仲介もあり、しぶしぶ水島に出向いたが、なんと冬資は了俊の手に者に殺害されてしまった。 島津国史には、怒った島津氏久は少弐の家臣とともに了俊を攻撃しようとしたが島津の家臣に止められ帰国したとある。 閉じる 少弐頼澄(よりずみ)・貞頼(さだより)の時代 水島の変で兄冬資が殺害された後、少弐氏の本流となった頼澄は、終始南朝方に味方し、幕府と探題と対抗することになった。 しかし、拠点であった筑前の守護職を奪われ、その勢力は解体されていき、少弐氏の衰退は決定的になっていった。頼澄は、永和4年(1378)に、41歳で死去したとなっているが、その事績は残っていない。 頼澄が死去したときに子の貞頼は6歳だった。少弐一門は肥前・肥後に退避し、今川探題に対抗していたようだが、至徳4年(1387)頃に、和睦したのか幕府の政策によるもにかわからないが、筑前の守護に返り咲いている。 しかし明徳元年(1390)には、貞頼は、良成親王・菊池武朝とともに、今川了俊と肥後隈部城で戦っているが敗退している。 明徳3年(1392)10月に、将軍義満の策略と大内義弘の活躍で南北朝の合体が成り、九州の南朝勢力も平定された。 だが、今川了俊は、義満に京に呼び戻され突然九州探題を罷免された。 新たな探題には斯波一族の渋川満頼が任命されたが、実権は大内義弘が握っていた。 九州に入った渋川満頼は、大内氏・大友氏の支援を受けて少弐貞頼・菊池武朝の追討を開始した。貞頼は反撃したが敗れている。菊池武朝は薩摩に逃れたという。 この頃から大内氏が直接九州に介入してきた。また鎌倉以来の同盟関係にあった大友氏とはじめて敵対関係になった。 将軍義満は、大内氏の勢力が拡大することを恐れ敵視するようになっていった。危険を感じた大内義弘は応永6年(1399)10月、将軍に叛き泉州堺で兵を挙げたが、あえなく滅ぼされてしまった。(応永の乱) 貞頼は、この乱のあと大内氏が一時衰退したのを機に勢力を回復し、豊前の守護を大内氏から奪い取っている。 応永11年(1404)6月に、貞頼が33歳で死去した。大内氏と戦い戦死してといわれているが、詳細はわからない。少弐氏の勢力を大いに回復させた勇将だったようだ。 閉じる 少弐満貞(みつさだ)の時代 満貞は、貞頼の子として応永元年(1394)に生まれたようだ。将軍義満から偏諱を受けたとの史料があるが満貞なのか他の兄弟なのかあやふやだ。 応永11年(1404)6月に、家督を継いだ満貞は、その後19年間その地位にあった。満貞は、大内義弘の娘を娶り、長く大内氏とは和平を保ち筑前の守護にも任じられている。 応永26年(1419)に、李氏朝鮮が対馬に侵攻してきた、日本側の倭寇が半島の沿岸を荒らしていたのを討伐するのが目的だったと言われる。 幕府は、元寇を思い本土からか応援軍を派遣している。少弐満貞は防衛軍に名を連ねているが、対馬に渡ったのかわからない。 この事件以後、満貞は朝鮮貿易に深く関わっていき、何度も使節を遣している。これは同じく朝鮮貿易に力を入れていた大内氏を強く刺激したようだ。 応永31年(1424)、満貞は、交戦が続いていた渋川義俊探題を筑後に追いやり、博多を占領した。渋川探題は、大内氏に支援を求めた。 大内氏は義弘の弟盛見が勢いを取り戻しており、再び九州に干渉してきた。満貞は、大内軍に敗れ、筑後に追われている。 永享2年(1430)に、満貞は、菊池持朝・大友持直と同盟し大内氏に挑んだ。翌年6月筑前萩の原の合戦で九州勢は勝利し、大内盛見は自刃している。 だが、盛見が九州における幕府領の管理を務めていたことから将軍義教の怒りを買うことになった。 永享4年6月、博多の櫛田神社の祇園会で殺傷事件が起きる、少弐氏・三原氏の家臣と怡土城の原田氏の従者が祭りの見学の最中些細なことで口論となり抜刀して斬りあった。 伝令で双方の応援が駆けつけ大乱闘になった。この事件以降に少弐氏と盟友であった原田氏の仲はまずくなっていった、 永禄5年(1433)3月、幕府から追討の命を受けた、大内持世(盛見の後継)は、少弐氏の居城有智山城を攻略した。 8月には、与賀庄の戦いで子の資嗣が戦死、満貞は、秋月に逃げ込んだが岡の城で自刃して果てた。二人の子(嘉頼・教頼)は、宗氏を頼って対馬に落ち延びた。 満貞が、秋月に逃げ込んだ訳が不明だといわれる。秋月は原田氏と同族である。当時少弐氏は、原田氏との関係が悪くなったいたので危険だったはずである。 閉じる 少弐嘉頼(よしより)の時代 対馬の守護代である宗氏は、少弐氏の歴代の重臣でもある。宗貞盛は、嘉頼・教頼を対馬に連れて帰り、少弐氏の再起を図った。嘉頼は14歳、教頼は9歳ぐらいと思われる。 他の少弐方の国人衆や一族は肥前方面で渋川探題と交戦と繰り返していた。 永禄6年(1434)以降には、宗貞盛は、嘉頼を大将として、筑前に出陣し大内軍と戦っているが、勝利することは出来ないでいた。 永禄11年(1439)頃、嘉頼は、幕府からに筑前への帰順が許されている。島国である対馬が食料不足になり宗氏や嘉頼が朝鮮沿岸を荒らしていたのを李氏朝鮮との関係悪化を懸念した幕府が、大内氏との間の和睦を図ったためである。 だが、2年後の嘉吉元年(1441)1月、21歳の若さで嘉頼は、対馬で死去した。 閉じる 少弐教頼(のりより)の時代 家督は、弟の教頼が継いだ17歳位と思われる。教頼は、宗貞盛ら旧臣の幕府への訴えで赦免がかない、将軍義教の偏諱を賜っていた。 さらに、先例にしたがい大宰少弐に任じられ太宰府に復帰し、肥前にいた旧臣の横武・千葉・筑紫・馬場氏などが集まってきて、少弐氏の回復が見られるようになっていた。 だが、その年の(嘉吉元年)6月、将軍義教が赤松満祐に殺害される大事件が起きる(嘉吉の変)、大内持世も負傷し一ヶ月後に死去した。 幕府から赤松氏討伐の命が、少弐教頼にも届き、急いで出陣したが、到着した時は既に山名持豊らによって討伐されていた。(そもそも出陣しなかったともいわれる) 少弐氏との和睦に不満のあった大内教弘(持世の後継)は、これを機会に少弐氏が赤松満祐の弟を匿ったなどと言い立てて、少弐討伐の許可を幕府から取り付けた。 追討を受ける身になった教頼は対馬に逃亡し、再び大内氏と争うことになっていった。 文安4年(1447)、宗貞盛の嘆願で、幕府から赦免された教頼は、肥前に戻ったが、この後も大内氏や渋川氏と交戦が続いていく。 長禄3年(1459)には、ようやく筑前に入ったが、またも大内教弘に敗れ対馬に逃れている。(肥前の龍造寺氏を頼ったとも) 応仁元年(1467)、京で応仁の乱が勃発する。大内政弘(教弘の後継)は、西軍の山名持豊(宗全)に味方した。筑前からは秋月・原田・三原氏などの国人衆は大内軍に従軍している。 少弐氏は、大内氏に対抗し東軍の細川勝元に応じた。教頼と宗盛貞らは、上洛した大内政弘の留守を突いて九州での勢力回復を図り、大宰府を攻めるも守備する大内・渋川軍に敗れ、教頼は戦死(自刃)した。応永2年(1467)12月のことであった。 閉じる 少弐政資(まさすけ)の時代 後を継いだ、子の政資(当時頼忠)も対馬の宗氏の庇護で育っている。三代に渡り主家の少弐氏を支えてきた宗氏はなくてはならない存在であった。 政資の政は、将軍義政の偏諱である。少弐氏が東軍の細川氏に味方し、幕府への帰参を認められたからと思われる。 文明元年(1469)5月、政資と宗貞国(貞盛の弟で後継)は、秋月・原田・草野・山鹿・麻生・長野らの諸氏を味方につけ、再び太宰府を攻撃し奪い返した。 そのご、旧臣たちも諸方から集まり勢いを増すと、大内勢力を排除し筑前・豊前を回復していき、筑前・肥前・豊前・対馬・壱岐の守護を得ている。 政資は、弟の胤資を小城の千葉氏の養子に入れ、佐賀の龍造寺氏とも縁を取り結び態勢固めをするなどの手腕を発揮していった。さらに、博多を手にいれた政資は、朝鮮貿易に力をいれ経済力をつけていった。 だが、応仁の乱が収束しそうになると、大内政弘は、京から戻り、再び九州への侵攻を始めた。文明9年(1477)の頃である。 この頃、対馬の宗氏は少弐氏から離反している。大内氏の調略によるものと思われ、これ以後宗氏は対馬から動かなかった。 文明10年9月、大内政弘に攻められ、政資は、太宰府を放棄し肥前に退却を余儀なくされた。少弐政資の全盛期はわずか10年で終わった。 佐賀の龍造寺氏の元に逃れた政資は、龍造寺氏など少弐方与党に守られていた。宗氏に代わって龍造寺氏に依存したようである。 長享元年(1487)には、肥前の綾部城を攻めて探題渋川万寿丸を筑前に追い、肥前東部への進出を図っていった。 筑前亀尾城に逃れた渋川万寿丸は、家臣森戸修理亮などに殺害されている。これを知った政資は亀尾城を攻撃し森戸修理亮を討ち、万寿丸の遺子刀弥王丸を筑後の奔らせた。 その後、大友政親と連携した政親は、筑後の国人衆を従え、渋川刀弥王丸の犬塚城を陥し、筑前・筑後・肥前を制して太宰府に入った。 明応3年(1494)には、千葉胤資(政親の弟)・龍造寺康家などの大軍を従え、肥前西部に侵攻し松浦党(波多・鶴田・相知・有浦)を支配した。 これらの政親の行動に驚いた大内義興(政弘後継)は、将軍義稙から少弐氏追討の命を引き出し、翌明応6年(1497)、大軍で筑前・肥前に侵入し少弐勢を撃破していった。 政資の嫡子高経が戦死し、政資も傘下の国人衆の多久氏の居城梶峰城に逃れたが、多久宗時に諭され同地の専称寺で自刃した。57歳だった。政資の治世は30年に及んでいる。 閉じる 少弐資元(すけもと)の時代 少弐氏は、政資の三男資元が肥前の少弐氏庶流の横岳資貞を頼って落ち延び辛うじて存続した。資元は7~8歳と思われる。 この頃にも、東肥前に少弐方の国人衆は、まだ固い結束を保っており、資元はそれら与党に守られて成人している。 明応8年(1499)11歳のとき、資元は大友政親の娘と結婚している。やはり鎌倉以来の盟友である大友氏に頼らざるを得なかったのかもしれない。 父の自刃、兄たちの戦死により、一時滅亡していた少弐氏だが、資元は、少弐方の与党や大友政親の支援でなんとか再興を成したようだ。 大永4年(1524)に資元は、少弐氏庶流の筑紫満門ら父子三人を謀殺している。これは、少弐氏が没落したあとに大内氏に降伏していた筑紫満門が、資元の家臣の馬場頼周を大内氏方に寝返らさせようとしたが、逆に馬場頼周の謀略によって誘い出されたという。 この頃、少弐氏の被官の中で最大の勢力は、肥前中央部の龍造寺氏であった。時の当主は龍造寺家兼で既に76歳と思われる。 享禄3年(1530)に、資元は、筑前守護代の杉興運(大内義隆の被官)に、攻められるが龍造寺家兼がこれを撃退している。(田手畷の戦い) 天文元年(1532)から同4年の間に、大内義隆は被官の陶興房を派遣し、立花城や多々良浜での攻防など、少弐氏・大友氏の連合軍と戦っている。 時期や勝敗は入り組んでいてよくわからないが、天文3年(1534)10月頃に、大内義隆が自ら大軍を率いて筑前に入り、太宰府に本陣を置いたようだ。 大内義隆は、龍造寺家兼に資元との和平を仲介させている。資元は、家兼の説得に応じて和議が成立したが、翌年、少弐氏は大内氏に東肥前の所領を全て没収されている。 ちなみに義隆は朝廷に多額の献金をして大宰大弐に任じられている。虚飾に過ぎない官位だが、義隆は資元の少弐より上の大弐が欲しかったようだ。 天文5年(1536)9月、資元は陶興房に攻撃され、梶峰城に逃れたが武運なく自害した。くしくも、父政資と同じ場所で同じ運命だった。 閉じる 少弐氏の滅亡 少弐冬尚(ふゆひさ)の時代 資元が、父政資と同じ場所で自害したとき、子の冬尚は肥前蓮池城の小田資光の下に落ち延びていた。 天文9年(1540)に冬尚(30歳位)は、龍造寺家兼の支援を受け少弐氏を再興している。 馬場頼周は、少弐氏の傍流(少弐満貞の庶流)である。後世に少弐氏を滅亡に追い込んだ張本人といわれている。 だが渡辺文吉氏は、頼周は明智光秀や陶晴陶のように主君を直接手に掛けたわけではなく主家をねらったわけでもない。ただ、傾きかっかった少弐氏を盛り立てようとしたが、やりかたがまずかったのではないか。と言われる。 天文14年(1545)1月、龍造寺氏は、馬場頼周の謀略により一族の大半が殺害されると大事件が起こった。生き延びたのは90歳を越えていた龍造寺家兼と孫の鑑兼だけだった。 龍造寺氏が力をつけ、少弐与党最大の勢力になったことへの、馬場頼周の妬みが原因と言われるが、当時の情勢では、いつまでも大内氏に反抗しても勝ち目は無いと悟った龍造寺家兼が大内氏に近づいたためとも言われる。 この事件は、当然主君の冬尚も同意していたはずである。永年の被官であった龍造寺氏へのこの仕打ちが後に少弐氏の滅亡を早めたようだ。龍造寺家兼は、馬場頼周だけでなく主君の冬尚も憎んだことであろうと思われる。 翌年、筑後に逃れていた龍造寺家兼は、一時対立し大内氏に逃れていた龍造寺胤栄(家兼の孫)と協力し、馬場頼周を討った。少弐冬尚とも敵対する関係になっていった。 少弐氏の有力被官であった千葉氏は、当時二つに分裂していて、東千葉氏には冬尚の弟の胤頼が入っており兄を支援していた、一方西千葉氏の千葉胤連は、龍造寺家の重臣の子を養子に迎え、冬尚に対抗した。 龍造寺家兼は、天文15年3月に93歳で死去している。後事は、曾孫の胤信(後の隆信)に託された。 冬尚は、文16年(1547)10月、大内氏の援助を受けた龍造寺隆信に、勢福寺城を追われ筑後に逃れている。しかし翌年、龍造寺当主の胤栄が死去した空きをつき、勢福寺城を回復している。 天文20年(1551)8月、大内義隆が重臣陶晴賢(当時隆房)の叛逆で滅んでいる。これにより北九州に強い影響力のあった大内氏の勢力は一掃された。 龍造寺氏は、内紛もあったが、隆信を中心に着々と勢力を拡大していった。少弐氏と龍造寺氏との対立を見た、大友義鎮は肥前の守護を奪っている。 冬尚は、大友義鎮と好を通じて、旧臣たちの糾合は図り体制の挽回を計ったが、これは龍造寺氏との対立を決定的なものしていった。 永禄2年(1559)1月、冬尚と千葉胤頼は、龍造寺隆信・千葉胤連に攻められ、勢福寺城で自害し、少弐氏は完全に滅亡した。 閉じる その後の九州 龍造寺隆信は勢力を拡大し、少弐氏に代わり、大友氏・島津氏と九州三強のひとりに伸し上がり筑前・筑後・肥後へ出兵を繰り返していった。 また、耳川合戦で大友氏を破った薩摩の島津氏は、北へ勢力を伸ばし、すでに衰えていた大友氏を除き、九州は二強の時代に入っていった。 天正12年(1584)3月、龍造寺氏と島津氏は、島原半島沖田綴で激突した。龍造寺氏は大将の隆信が敗死し大敗する。島津義久は、肥後に侵攻し豊後に圧力をかけ、九州制覇を目指していく。 だが、天正15年(1587)4月、大友宗麟から要請を受けた豊臣秀吉は、全国から20万の兵を集め九州に渡り反抗勢力を降とすと、5月には島津義久を降伏させ九州を平定した。 閉じる 今回の本を読むまで、少弐氏が、鎌倉時代から戦国時代まで、九州の三強のひとつといわれていたことも知らなかった。また、少弐氏が蒙古襲来の最大の功労者であったことも初めて知った。 旧国名と都道府県名 読んだ本 ・渡辺文吉著 武藤少弐興亡史 ・外山幹夫著 日本の名族/少弐氏 ・吉永正春著 筑前戦国争乱 ・他にWikipedia等ネットの資料を参考 日本の歴史本を読んでみての一覧へ |
九州旧国名図 | 少弐氏系図 | |
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