| ~ 山中鹿之介の尼子氏再興への戦い  ~ シリーズ:日本の歴史本を読んでみて 
 「我に七難八苦を与え給え」の名言で名高い山中鹿介幸盛の生涯を綴った「三日月の影」が、戦前の尋常小学校の教科書に載せられて、鹿之介は一躍ヒーローになった。 名言は後世の創作のようだが、鹿之介が主家尼子氏の再興に生涯をかけたのは間違いのない事実のようだ。 なお、名は本人の署名も残っている鹿介が正しいようだが、ここではよく知られている鹿之介と記していくことにした。 山中鹿之介の出自 鹿之助は、尼子氏の家臣:山中満幸の次男として生まれた、実際の生年は不明だが天文14年(1545)8月が通説のようだ。なぜなら鹿之助の前半生の記録は、江戸時代の伝記と軍記物しかなく、確かな史料はまったくないからだ。 これまで読んできた武将達の歴史話にも度々伝記・軍記物のことが出て来るが“こういった話がある”と紹介される程度であまり重要視されていない。小説では元ネタになっている場合がほとんどだ。 今回読んだ本の中にも、青年期の鹿之介の風体や性格が描かれているが伝記によりかなり違っている。歴史上に現れてからの話も伝記と軍記物が元になっているのが多いが、史実と思いながら読んでみた。 鹿之助の生年と言われる天文14年は、主家尼子氏の英傑尼子経久が没した年で尼子氏の衰退が始まった年と言われている。 閉じる 月山富田城の落城 毛利元就が荒隈(洗合)に本陣を構え、尼子晴久の妹聟松田誠保が守る白鹿城を攻撃したとき、尼子本城の富田城からの救援部隊に鹿之介は従軍している。 戦いは毛利軍が圧勝し、尼子軍が富田城に撤退するとき、殿(しんがり)を努め奮戦したのは鹿之介だったと伝えられている。 永禄8年(1565)9月、元就は富田城を攻めたが成果が得られず膠着状態に陥っていた。この頃に有名な品川大全と鹿之介の一騎打ちの話があった。 軍記物によって鹿之介の活躍度合いがずいぶん違うらしいが、一騎打ちは助太刀がいた鹿之介が勝利し、品川大全は死んだが鹿之介も大きな傷を負ったようだ。 尼子方は、当主の尼子義久をはじめ鹿之介達は富田城に籠っていたが、毛利方の兵糧攻めに耐えきれず、永禄9年(1566)9月に開城し尼子方に落ちた。当初2万いたといわれる尼子軍は、開城のときは140名だった。この140名の名簿は残っている。 尼子氏の義久・倫久・秀久の3兄弟は赦免され、近習たちと円明寺に幽閉されていた。しかしここから先は数名の近習のみの同行しか許されなかった。 鹿之介らは、杵築神社での別れの宴のあと、主君と別れて諸国に流れていった。尼子3兄弟は毛利氏の客分からやがて家臣になっていった。 閉じる 第一次尼子氏再興の動向① 尼子再興軍出雲へ 主君と別れた鹿之介と同じ近習衆だった立原源太兵衛久綱らは、京にいたといわれるが定かではない。有馬温泉で傷を癒やした後、武田信玄や上杉謙信等の東国の武将を訪ね巡ったとの話もあるが、史料があるわけではない。 だが永禄11年(1568)に、鹿之介らは、京の東福寺の僧だった尼子誠久の遺児:孫四郎(僧名不明)を還俗させている。尼子勝久だ。 孫四郎は、尼子氏の精鋭部隊新宮党を統率していた尼子国久の孫(誠久の子)で、新宮党が尼子当主の晴久に撲滅されたとき、乳母に抱かれて脱出していた。 この頃毛利氏元就は、豊後の大友宗麟との攻防で、元春・隆景だけでなく出雲の有力国人衆を多数、北九州の出陣させていた。 鹿之介は出雲の毛利軍が手薄になったいる機会を捉えて、立原久綱ら尼子の牢人を集め富田城奪回し尼子氏の再興を図ろうとした。 出雲の状況を鹿之介に伝えたのは出雲大庭大宮(神魂神社)の秋上綱平だった。当然、鹿之助は大友宗麟と連絡を取っていたと思われる。 尼子勝久は、鹿之介らが起こした尼子を再興する軍(以降;尼子再興軍と記す)の総大将で旗印として擁立されたのだろう。 永禄12年(1569)4月頃に、尼子再興軍は京を出て但馬に入った。但馬では山名氏の総帥山名祐豊の支援を受けている。山名氏は長年に渡り尼子氏と敵対していたが、今では、尼子氏に代わり毛利氏に制圧されていた。 尼子再興軍は但馬から山名氏の軍船で島根半島に上陸し、毛利の守備軍と戦いのすえ忠山砦に本陣をおいた。(隠岐に上陸し隠岐から島根半島に上陸したとも言われる) 尼子勝久は2歳で出雲を去っているので20余年ぶりの故国で、鹿之介にとっては富田城落城から2年8ヶ月ぶりであった。 閉じる 第一次尼子氏再興の動向② 激動の永禄12年(1569) 出雲に入った、尼子勝久と山中鹿之介が、尼子再興の激を飛ばすと、出雲や伯耆などに潜伏していた尼子の旧臣達が続々と集結し3千余りの軍勢になったという。 6月下旬には、多賀元龍が籠もる新山城を攻略し本陣を移した。鹿之介らは末次城を奪取するなど各地で戦い繰り広げ勢力を広げていった。 やがて富田城の周辺に支城を築き、7月中旬に富田城の攻略に取り掛かった。しかし鹿之介と立原久綱らの力攻めによる攻略はならず城を落とすことは出来なかった。 同じ頃、石見に出陣していった尼子再興軍は、石見銀山を守っていた服部左兵衛らの毛利軍に攻められ苦境に落入っていた。 鹿之介は、富田城攻めを中断し、石見に救援に向い、両軍は原手郡で激突し、尼子再興軍が大勝した。(原手合戦)勢いを得た尼子軍は、出雲国内で諸城を攻略し出雲一円を支配するまでになったいった。 8月になると九州から、毛利方の高瀬城主:米原綱寛、三沢城主:三沢為清が富田城救援に帰還してきたが、米原綱寛は出雲に着くと尼子方に寝返った。(留守宅の妻子が人質に取られていた、高禄で誘われた、大谷宗麟の勧めがあったなどが理由と言われる) すると、熊野城にいた熊野久忠も尼子方についた。さらに、尼子旧臣の三刀屋久扶や三沢為清も味方になった。(この二名の帰順は既に尼子方にいた旧臣達が反対したため受け入れなかったとも言われる。) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 9月に、伯耆に侵攻しようと準備していたところ、尼子方の援軍として美保関にいた隠岐の隠岐為清が突然反乱を起こした。 伯耆の国境付近にいた鹿之介と立原久綱らは美保関に制圧に向かったが隠岐為清の反撃にあい敗走させられた。だが隠岐軍の背後から横道源介・権充兄弟と松田誠保らが急襲したことで為清は隠岐に逃げ帰っている。(隠岐為清の反乱) 辛うじて反乱を鎮圧した鹿之介らは、伯耆に侵攻し、尾高城・八橋城・岩倉城を攻略し、末吉城の神西元通を味方につけてると伯耆全土にも勢力を拡大していった。さらに美作の芦田・市・三浦らの国人衆を味方につけている。 尼子勝久と鹿之介らは、出雲の杵築神社(出雲大社)や伯耆の寺社に寺社領を安堵・旧禄を復すなど国内勢力の懐柔にも取り組んでいたようだ。 尼子勝久が出した寺社宛の多くの判物や連署書状が残っている。連署によると鹿之助と立原久綱の地位の高さがうかがわれる。 この頃、織田信長は羽柴秀吉を但馬・播磨に出兵させ諸城を攻略している。毛利氏の要請といわれるが織田信長の力の誇示だったようだ。 閉じる 第一次尼子氏再興の動向③ 毛利軍の逆襲 九州から撤収し、吉田郡山城に集結していた毛利軍は、永禄13年(1570)1月、鹿之介の尼子再興軍を鎮圧するため総勢2万5千の大軍で出陣した。毛利軍は石見から出雲へ入ると尼子方の諸城を次々と攻略し、富田城へ陣を進めていった。 尼子再興軍は、原手合戦や隠岐為清の反乱などに兵力を割かれ富田城を攻略することができないでいた。鹿之助たち尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部山に陣を張り決戦に備えることになった。総勢7千といわれている。 2月、布部山で激戦が展開された。三倍の兵力の毛利軍に尼子再興軍は敵わず多くの戦死者を出し総退陣している。 鹿之介は、末次城に逃げ帰り、のちに本陣の新山城に帰っている。知らせを聞いた毛利元就は手放しで喜び尼子再興軍は間もなく崩壊するであろうと言ったという。 翌日、毛利軍は富田城に入り城を守っていた天野隆重の軍と合した。天野隆重は孤軍でよく城を守ったと思われるが、やはり鹿之介たちの作戦の失敗で、毛利の援軍が来る前に総力で富田城を落とすべきだったようだ。 尼子方の出雲の城は次々と落とされいった。武将達も毛利方に降りていき、5月には、鹿之介が京にいたころからの味方だった出雲大庭大宮の秋上綱平が子の庵介とともに毛利方に降りている。 秋上庵介は毛利義久の時代には鹿之介につぐ勇士で、かの品川大全との一騎打ちで鹿之介に助太刀した人物で弓の名手だったと言われる。 閉じる 第一次尼子氏再興の動向④ 尼子再興軍の崩壊と鹿之介の逃走 6月頃には、尼子再興軍は勝久の本陣新山城、米原綱寛の高瀬城、古志重信の戸倉城の三城のみになっていた。そんな中、安芸で毛利元就が重病さとの知らせが届き、毛利軍は吉川元春と宍戸隆家を残し総大将の毛利輝元らは安芸に戻っていった。 毛利軍が手薄になると鹿之介らは反撃に転じていった。9月中旬に中海の拠点十神山城を攻略した。末吉城も攻撃したが吉川元春に背後をつかれ失敗した。 しかし尼子再興軍は中海の制海権は奪ったようだ。南の清水山も占拠したが翌月奪い返されている。さらに、隠岐の隠岐弾正左衛門尉を味方につけ日本海側の制海権も取得しつつあった。勢力は島根半島全域に拡大していたようだ。 10月には、高瀬城の米原綱寛は、毛利方の手崎城(吉川元春の居城?)を攻めたが城は奪取できなかった。 11月になると吉川元春は、戸倉城の古志重信を降伏させ、新山城に攻め入り放火を繰り返している。高瀬城の支砦も焼き崩していった。 鹿之介は、高瀬城へ兵站を送ろうと宍道湖北岸の満願寺城を奪ったが兵站は送れなかった。満願寺城は翌月初旬に奪い返されている。毛利方は、高瀬城と新山城の間に城を築き両城の連絡を絶った。 元亀2年(1571)2月、兵站が尽きてきた高瀬城の米原綱寛は開城し自らは新山城へ逃れた。隠岐の隠岐弾正左衛門尉も毛利に降伏し、尼子勝久の新山城は孤立無援の状態になったいった。 6月14日、毛利元就が吉田郡山城で75歳で没し、波乱万丈の生涯を終わっている。 一方、鹿之介は、伯耆で尼子の拠点を築こうとしていた。吉川元春は父の弔合戦として伯耆に出陣し尼子方の武将を討滅し残党を攻撃していった。鹿之介は末石城にいたが、これを知った吉川元春は末石城を包囲した。 鹿之介は降伏し、杉原盛重の尾高城に監禁された。数日後に鹿之介は尾高城を脱出し行方不明となる。軍記物では、赤痢だと偽って何度便所に通い番兵の油断を見て逃走したとされている。 伯耆から尼子の残党がいなくなったことを知った尼子勝久は、城を出て簾ヵ岳かた桂島さらに隠岐に渡り、京へ逃れたと言う。こうして第一次尼子氏再興の試みは、2年2ヶ月で終わり、出雲は再び毛利氏が支配した。 閉じる 第二次尼子氏再興の動向① 因幡への侵攻・鳥取城の奪取 伯耆から京へ逃れた鹿之介の動向は、立原久綱とともに近江の明智光秀を頼り、信長に面談し、織田勢が中国に進出するときの案内役を申しでたとされる。 また、安国寺恵瓊の毛利氏へ送った京の情勢を記した書状によると、鹿之介は柴田勝家に援助を求めていると書かれている。 鹿之介たちは、尼子氏再興の支援を織田信長に求めたようである。この頃の信長は、まだ畿内を固めていなかったので、中国の毛利氏とは表面上は対立を避け友好関係を保っていたが、陰では尼子勝久や鹿之介を援助していたようだ。 尼子の残党を討ち伯耆を平定した吉川元春は、同じ頃、鹿之介たちを支援していた因幡の山名豊国・但馬の山名祐豊などを降伏させて、因幡・但馬を制圧すると出雲の富田城に帰陣した。 これを見た但馬に潜んでいた鹿之介たちは、山名祐豊など但馬の国人衆の支援で因幡に侵入していった。元亀4年(1573)初頭と思われる。 鹿之介の但馬潜伏や因幡進出の支援は、信長の意向に山名祐豊などが従った為と思われる。この頃には、但馬の半数近い国人衆は、羽柴秀吉と連絡をとりあい織田方に傾いていたようだ。 因幡に侵攻した鹿之介らは、桐山城を攻略して拠点として因幡各地に進出していった。そして集まってきた旧尼子の武将達と要衝の甑山城(こしきやまじょう)に入り尼子氏再興の機会をうかがった。 この時点での因幡の領主は武田高信である。同年(改元で天正元年)8月に甑山城を攻撃した。武田軍は城に攻め上ったが、鉄砲隊に反撃され敗退したとある。 また今木山城主の秋里左馬允が鹿之介に味方し進出してきたので武田軍は全軍敗走した。(たのも崩れ)尼子方の鉄砲の数や秋里左馬允など因幡の国人衆の動きも織田方の影がみえる。 敗走した武田高信は、鳥取城に籠もった。鹿之介たちは鳥取城を攻めてが容易に落とせなかった。兵力は尼子再興軍千、武田軍5千と言われた。 鳥取城下で戦闘が繰り広げられたが、長期籠城の準備がなかった武田軍は開城して降伏した。武田高信は弟の籠もる鵯尾城へ逃亡している。 鳥取城には、毛利氏と武田高信により因幡領主の座を追われていた山名豊国が入った。勢いに乗った鹿之介らは、東因幡の毛利方の諸城を攻略し支配下においていった。 閉じる 第二次尼子氏再興の動向② 毛利氏の反撃 鳥取城を奪った尼子方だったが、わずか一ヶ月後に毛利氏に奪い返されてしまった。山名豊国が裏切ったとも言われているが、抵抗せずに降伏したようだ。 天文2年(1574)9月に、鹿之介は再び毛利淨意が立て籠もっていた鳥取城を3千5百の軍勢で攻撃し開城させ尼子勝久らが入城している。 この前の正月に、鹿之介らは私部城を攻撃したが失敗している。私部城には毛利氏が派遣した牛尾大蔵と姫路玄蕃が立て籠もっていたが、3月には大坪一之が入城している。 しかし時期はわからないが(鳥取城再奪取の後と思われるが)大坪一之が退城し、鹿之介と娘婿の亀井茲矩が入城し居城にしている。 天文3年(1575)5月に、但馬の山名祐豊は毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和睦を成立させる。信長が徐々に但馬に侵入してくることに脅威を感じて長年の敵だった毛利氏と手を結んだと言われる。 山名祐豊の支援が得られなくなった鹿之介は、6月に因幡の若桜鬼ヶ城を攻略し拠点を移している。若桜の町は、因幡・但馬・美作への街道の要所にあった。私部城は、聟の亀井茲矩に任せている。茲矩は当時17歳だった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ この頃の鹿之介は、大軍を動かすというよりゲリラ戦と謀略を用い敵を制圧していたようであった。若桜鬼ヶ城についても「謀略をもって生どり」と書かれた島津家久の道中日記が残っている。 織田方の羽柴秀吉とも連携していたようだ。(連携というより利用されていたのか) 毛利氏は、尼子再興軍の因幡侵攻は、その背後に織田信長の支援があるとみて、但馬の山名祐豊と和睦するなど手を打つと、天文3年6月頃に、4万7千の大軍を安芸から出陣し因幡へ軍を進めていった。 まず私部城など周辺の諸城を落とし若桜鬼ヶ城を孤立させていたが、8月に若桜鬼ヶ城へ攻撃を開始した。籠城していた鹿之介らはよく持ちこたえていた。 その頃、播磨で織田氏と毛利氏との間が緊迫してきたことで、吉川元春と小早川隆景は、毛利軍の主軍を安芸に帰させた。手薄になった若桜鬼ヶ城は、翌天正4年(1576)春まで持ちこたえていた。 しかし5月に、尾高城主の杉原盛重と南城宗勝らが、大規模の攻撃を仕掛けてきた。持ちこたえられなくなった鹿之介・立原久綱らは尼子勝久をともない城を脱出し但馬へ逃れていった。こうして鹿之介の第二次尼子再興も失敗に終わった。 閉じる 第三次尼子氏再興の動向① 秀吉の中国侵攻 天正4年(1576)頃の畿内は、本願寺顕如が織田氏との先の和睦を棄て、毛利氏に寄食していた足利義昭の呼びかけに応じ兵を挙げていた。 義昭は、内書を各地に送り信長包囲網の構築に勤しんでいて、この中には上杉謙信もいた。そして毛利氏も反信長を鮮明にしていった。 軍記物によると、因幡から逃れた鹿之介たち尼子再興軍は明智光秀の麾下に属して、但馬の八木城や丹波の籾井城攻めに参陣し活躍していた。 光秀より褒美を賜った書かれている。また、信長を裏切って信貴山城に籠った松永久秀の討伐にも加わっていたようだ。 加賀では、上杉謙信が柴田勝家らの勝利したのに、畿内に入らず越後へ引き上げていった。謙信のいない信長包囲網はやがて崩れていった。 体制を立て直した信長は、羽柴秀吉を総大将として中国侵攻に取り掛かった。これを聞いた鹿之介は、明智軍を離れ秀吉軍に属していった。 天正5年(1577)10月、京を出陣した秀吉は姫路城に入り、但馬を制圧したあと播磨西部の佐用郡の攻略にかかる。赤松政範の上月城は、佐用郡での毛利の拠点であった。 12月、上月城の攻防では秀吉みずから包囲したが、毛利方の宇喜多直家が背後から襲ってくるなど激戦になったが7日目に落城した。 上月城には、尼子勝久・鹿之介ら尼子再興軍が城番として入り、この城を拠点に尼子氏再興を図っていくことになった。 この上月城の攻防戦は、軍記や史記によりいろんな説があるが、落城後に鹿之介らに籠城させたのは事実で秀吉の書状が残っている。 閉じる 第三次尼子氏再興の動向② 上月城の落城 天正6年(1578)2月初旬に、秀吉が戦況報告で京に帰っていたとき、宇喜多軍の真壁次郎四郎に上月城を兵3千で攻られたが、鹿之助たちが逆襲し真壁次郎四郎を討ち取り勝利している。城にいた尼子再興軍は5~8百と言われている。 天正6年(1578)2月、秀吉は播磨に戻った。だが、中国攻めの先鋒であった別所長治が寝返り三木城に立て籠ると、東播磨の国人衆たちの多くが反乱した。 西播磨の書写山にいた秀吉は、東西から挟撃される状況になった。これらの動きは当然毛利氏の調略によるものと思われる。 4月、秀吉は東に向かい三木城を攻撃を始めたが、これを見て吉川元春と小早川隆景の毛利主力軍は、孤立した上月城を3万の兵で包囲する。 元春は、北方の太平山に、隆景は南方の大亀山に布陣、さらに東方には宇喜多直家の弟忠家・杉原盛重など毛利方の武将が布陣した。 西方は山地で、上月城は完全に孤立状態であった。なお毛利氏当主の毛利輝元は備中松山城に入りまさに毛利軍の総勢が揃っていた。 5月初旬、秀吉は知らせを受けると信長の援軍を待ち、荒木村重が到着するとともに上月城の救援に向かい高倉山に布陣したが、毛利氏の総勢は3万、秀吉軍の1万では攻撃を仕掛けられない。 秀吉は信長に報告したが、信長の指示は上月城を救うことより三木城を落とすことが先決とのことだっだ。 秀吉はこの決断に不満があったようだが、信長の指示に逆らえない、6月21日に毛利軍が高倉山を攻撃したが、秀吉は積極的に応戦しなかった。そして24日、秀吉は高倉山から撤退している。 上月城に籠城していた尼子再興軍は、2千3百とかかれた軍記物もあるらしいが、小さな城でそんなに入れずせいぜい数百だったと思われる。 7月初旬、兵糧がつきた鹿之助たちは毛利軍に降伏した。尼子勝久と弟の助四郎は切腹し、鹿之助と立原久綱は生け捕られ人質となった。 だが、鹿之介は、備中松山城の毛利輝元の元に護送中に毛利氏の刺客により殺害された、享年34歳。こうして尼子氏再興はならなかった。 閉じる 尼子再興軍のその後 鹿之介は、なぜ恥をしのんで生き捕られたのか、多くの史料(軍記物も)では、毛利氏に対する恨みは深く機をみて宿敵毛利元春と刺し違えたかったに違いないとしている。 尼子勝久には尼子再興の巻き添えにしたことを詫たが、勝久は僧だった自分を大将として現世に活かしてくれたことを感謝したという。 立原久綱は、護送中に脱出し、秀吉重臣の蜂須賀家政に仕え、慶長18年(1613)阿波で84歳の天寿を全うしている。 鹿之介の聟亀井茲矩は、秀吉軍に従っていたので難を逃れ、尼子再興軍の一部は亀井氏家臣となった。関ヶ原では東軍についた亀井氏は、徳川幕府のなかで幕末まで生き残っていった。 また、鹿之介の実子:幸元は、父の死後武士を廃し摂津国川辺郡鴻池村で酒造業を起こし成功すると、大坂に進出して鴻池新六と名乗り、豪商鴻池財閥の祖となっている。 閉じる 鹿之介にとって主君は尼子義久であったはずだが、義久は月山富田城の落城のあと、客分から家臣となり毛利氏のなかで余生を送っている。尼子氏再興とは誰の為、何の為であったのか、後世に英雄とするために創作されたのであろうか。 たが山中鹿之介は、軍記物だけでなく同時代の吉川家文書・信長公記など多くの史料に名を残しているので、やはり存在感があり優れた武将でだったのだろう。 旧国名と都道府県名 島根城郭分布地図 島根県のお城 読んだ本 ・米原正義 山中鹿之介のすべて(再興第一戦) ・日置粂左衛門ヱ門 山中鹿之介のすべて(再興第二戦) ・熱田 公著 山中鹿之介のすべて(再興第三戦) ・立川文庫 武士道精華 山中鹿之介 ・松本清張著 山中鹿之介(小説) 日本の歴史本を読んでみての一覧へ  |