~ 伊予の越智氏と河野氏 ~ シリーズ:日本の歴史本を読んでみて
河野氏は、古代伊予の最大の豪族だった越智氏の末裔と伝えているが、多くの歴史家や学者がそれを否定している。では河野氏が先祖としたかった越智氏とはどのような一族であったのであろう、ここでは越智氏、そして河野氏に関する諸本を読んでみた。 伊予国越智氏とは 越智氏に関するもっとも詳しい本は、白石成二著「古代越智氏の研究」だが、この本は難解すぎるので斜読みしながら、ここでは松原弘宣著「古代の地方豪族;第六章(伊予国)」を読ませていただき抜粋している。 越智氏は、五世紀後半の大和政権下で伊予の五国造(伊余・久味・小市・奴麻・風速)の一つ小市国造(おちのくにのみやつこ)を任じられた物部連の大新河命の孫小致(子致)が祖で、小致の子孫がひろく越智郡に居住し豪族越智氏になったという。 だが、越智氏はもともと在地の豪族であったが中央で強大な権力を有していた物部氏に接近し大和政権に服属したとの説もある。 他にも出自の説はあるが、どれも確かな史料があるわけではない。また大和の越智氏と関係があるとのもいわれるが無関係との説が一般的だ。 伊予の越智氏の人として初めて史上に登場するのは、七世紀中頃の越智直(おちのあたい;直は姓、名は不明)である。 越智直は、天智2年(663)に朝鮮半島の百済を支援するために、倭軍が出兵した白村江の戦いで捕虜になったが、舟を造って帰国できるように観音菩薩に祈願し、無事に帰国できたと伝えられている人物である。 この説話で興味深いのは、越智直の信仰が氏神ではなく仏教の観音菩薩であることだ。観音菩薩は水難から守る航海の守護神でもある。 帰国した越智直は、天皇から「郡を建て寺を造る」ことを許されている。一族を率いて外征し、惨憺たる敗北を蒙ったことでおこった領内の動揺を、寺院を建て仏教で防止し支配を維持安定させていったのでないか思われる。 この越智直の後裔が越智郡の大領(郡司の最高位)の祖だといわれている。大宝律令(701年成立)により全国を一元的に支配する体制ができ、伊予国は南海道に属し、その中で越智郡は十郷を有する最大の郡であり、越智氏は大領などの郡司であった。 この時期から平安期にかけて越智氏は、在地豪族や郡司の越智氏と中央官人の越智氏が存在したようだ。奈良時代の在地越智氏では、越智直東人・広国・飛鳥麻呂・国益・蜷淵(南淵麻呂)・静養女・広川・在手が見える。 越智郡の大領は、越智直広国→飛鳥麻呂→蜷淵(南淵麻呂)と引き継がれたようだ。蜷淵は史料で確認できる最後の越智郡司である。ただ、史料にはないがその後の越智氏の位階の高さから、郡司の地位に留まっていたと思われる。 延暦10年(791)に、越智直広川等は自己の祖を紀博世(紀氏一族)とし紀氏への改姓を申し出ている。 事由は、広川等の先祖は紀博世の孫忍人が越智氏の娘を娶り子をもうけたが庚午年之籍(当時の戸籍)に誤って母方の越智氏で記載されたため越智氏を名乗っていたという。 このことから越智直氏の内部は、紀博世系とそれ以外の間で分立が生じていたことを示唆していると思われ、八世紀中頃には同族内部で主導権争いが生じていたようだ。 閉じる 中央官人の越智氏 中央官人になっていった代表的な人物が越智直広江であった。広江は養老4年(720)時に、大学明法博士(律令学の権威)であったことが知られている。 聖武天皇に仕え、藤原不比等の信頼もあつかったという。広江が律令学をどこで学んだかは不明だが、越智氏は唐から仏教だけでなく律令学も導入したようだ。 他に中央に進出した越智氏として、越智直入立・祖継・浄継・吉継・年足・広成・広岑・越智宿禰貞原などが見られ、この多さは伊予の他豪族を凌駕している。 中には越智直広岑のように、越智直の名を捨て善淵朝臣を賜り名実ともに中央官人になっていったものもいた。 だが、九世紀中頃に頂点を極めたと思われる在京の越智氏の繁栄は、九世紀後半から十世紀にかけて次第に衰退していった。 理由は、律令体制の解体によって学問を専門とする国家的需要が減少し、学問を業となす氏族が絞り込まれていったことにあると思われる。仁和年間(885-889)には、中原氏と清原氏の進出が顕著になり、明経道の官職はこの両氏によって独占されている。 承和2年(835)に越智直氏の七人に宿禰の姓が与えられ、越智直から越智宿禰に改姓している。宿禰は、八色姓(真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置)の一つで、3位の宿禰は貴族官僚を出すことのできる氏族として認められた姓であった。 宿禰への改姓は、在京の越智氏だけでなく伊予在地の越智氏も挙げて協力していたと思われる。在京の越智氏で行政官に転じた越智貞原も宿禰を賜った一人であった。 貞原は、承和6年(839)に遣唐使の一員に選ばれている。貞原は帰国後に太宰府大典を経て貞観11年(869)に隠岐守となっている。 だが貞原は、貞観8年(866)に、隠岐の牢人安雲福雄によって新羅人とともに叛逆を企てたという理由で密告されている。 密告は誣告だと判明したが、貞原は管轄下の事件を弾劾しなっかたことで、貞観11年(869)遠流になっている。この事件は、貞原を失脚させるための陰謀が感じられる。 越智広岑が越智直の名を捨て善淵朝臣に改姓したのはこの時期で、この事件により在京の越智氏は大きな打撃を受けて他の氏族に移っていったのか、やがて中央から越智氏の名は史料上から姿を消していった。 貞原の事件は、越智郡に居住した宿禰系の越智氏にも影響が及んでようで長い間、史上から姿を消している。 閉じる 藤原純友の乱と越智氏 平安時代中期に、関東で平将門が自ら新皇と称し独立国を打ち立てようとしたが、中央から派遣された藤原秀郷ら追討軍の攻撃を受けて滅ぼされている。(平将門の乱) 同じ時期に瀬戸内海で、海賊鎮圧の任にあたっていた藤原純友が地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して中央に対し蜂起している。 藤原純友の叛乱の拠点は伊予国宇和郡であったが、伊予の大豪族である越智氏の関与が不明である。この乱の数年後に越智用忠という人物が、海賊平定の功績で叙位を申請したという記事があるだけである。 越智氏は、最初から中央の政府側につき、純友軍と奮闘した形跡はまったくない、越智氏は中央に距離を置いてこの乱を見ていたようである。 だが、純友側に与したとは考えられない。伝承では、村上という大剛の者が越智好方の許しを得て、九州に押し渡り純友の首を刎ねたと書かれている。 配下に水軍兵力を持ち、瀬戸内海に大きな影響力を持っていた越智氏が、この乱に積極的に関わりを持たなかった理由は、白石成二氏によると 瀬戸内海の海賊の根拠地は伊予国の越智郡宮崎村と宇和郡であり、越智氏の支配下にある地域だ。越智氏は水軍を持ち、瀬戸内海だけでなく唐や朝鮮半島まで広く交易活動を行っていた。当然多くの海を生業とする海民を組織していたと思われる。 ところが、越智貞原の事件の影響で、在地の越智宿禰氏が衰退したことで組織力が弱体化し、これらの海民たちの一部が海賊化していったのではないか。藤原純友が叛乱の拠点とした宇和郡も、統制力が低下した越智氏に代わり入り込んだと思われる。 このような背景があれば、越智氏が藤原純友の海賊討伐の動きに距離を置いたと思われる。一方、越智氏から離れた海民を組織化した純友らによる海上交易活動は、越智氏の権益を侵害するものであったから、その勢力とは対峙する必要があった。 越智氏は、貞原の事件の影響で中央から敬遠され、出先である国衛との間にも距離が生じ、国衛から距離をおく消極的態度ながらも一貫して反純友の立場であったと考える。 このように、越智氏は藤原純友の乱に関しては、深く関与しなかったと思われる。越智用忠の叙位を申請は、乱が鎮圧された後に海賊の残党狩りを行った功績と思われる。 この乱の後、越智氏は国衛との関係を修復し、純友追討に功労があった武功の家として承認され、押領使として武士化していたらしい。 閉じる 越智氏の終焉 越智氏の隆盛は七世紀から十世紀にかけての時代であり、十一世紀以降になると、交易活動や海外活動など積極的な行動は見られなくなっている。 伝統的豪族として国衛権力に依存することで生存をはかろうとしたようだが、それは越智氏の氏族としての歴史的役割の終焉であった。 永延元年(987)に、越智常世が東三条第で執り行われた相撲に、伊予より助手として参加したなど相撲史上には登場するが、長保4年(1002)に、越智為保を伊予追捕使に任命された記録を最後に、越智氏が表舞台に登場することはない。 十一世紀以降に台頭してきたと思われる河野氏や新居氏などの新興勢力に、勢力を奪われ徐々に衰退していたったのではなかろうか。 だが、越智の姓は現在でも今治市で最も多い姓として現代に残されている。 閉じる 河野氏の出自 平安時代後期以降に発展した河野氏は、風早郡河野郷に住み着いた新興の豪族だと思われる。河野氏が伝える越智玉興や玉澄の流れであるというのは歴史的実態のないものだと史学者の山内譲氏は言い切っている。 他にも、伊予の新興豪族の新居氏や別宮氏も越智氏を祖先と言っているが、いずれも確定だけでなく推測される史料もない。 河野氏が、越智氏の末裔とし自ら越智姓を称しているのは、河野氏が伊予を代表する武士団に成長するに至って、その出自を古代の名族である越智氏に仮託したのであろう。 それは越智氏の名が在地支配を正当性を主張するためには必要であったし、また越智氏がそれに値する名族であったからだ。 河野氏の伝承では、白村江の戦いの時、伊予水軍を率いて出陣した越智守興と戦地の唐の武将の娘との間に生まれた子が玉守・玉澄兄弟とされている。 この玉澄が風早郡河野郷に居を構え河野氏と称したとたのが祖であるとしている。また玉守は伊予橘氏の元祖だといっている。玉澄の子供とされる「安元」が大三島大山祇神社祝家として分派したとも記している。 玉澄は、実在した人物ではないかとの説も多いが、この玉澄は間違いなく越智氏であり、風早郡河野郷に住んでいたので河野氏を称していた。 本来越智氏ではなかった後世の河野氏が、越智玉澄の別名であった河野氏を簒奪し、系図上でもこの辺りに入り込んで越智氏の後裔としたようだ。信州の真田氏をはじめこのような話はいくらでもある。 河野氏が記した予章記や水里玄義に書かれている越智氏の記述は、後世の河野氏からみた古代越智氏であって、史実もあるかもしれないが、鉄人伝説など虚実入り交じった不思議な内容である。 閉じる 鎌倉・南北朝時代の河野氏 河野氏は、当初は伊予国衙の役人であったようだが、源平合戦で河野通清・通信父子が源氏に味方したことで鎌倉幕府の御家人となっている。 承久の乱のとき後鳥羽上皇に味方したために一時的に衰退したが、元寇のときに河野通有が活躍してその武名を馳せ河野氏の最盛期を築き上げている。 だが、後醍醐天皇の倒幕(元弘の変)では一族は討幕に立ち上がるが、宗家の河野通盛(通有の子)だけが最後まで幕府に従ったために、鎌倉幕府崩壊後は仏門に入り隠棲し河野氏は再び衰退していった。 南北朝時代になると通盛は、足利尊氏に忠誠を誓い、本拠を河野郷から温泉郷道後の湯築城に移すと、南朝方を制圧しながら勢力を挽回し、尊氏から伊予守護に任じられている。 観応の擾乱では、尊氏方につき直義方・南朝方双方と戦って勢力を伸ばして河野氏再興を果たした。しかし擾乱の後に伊予守護は細川頼之に移った。 細川頼之は康安の政変で失脚した従兄弟の細川清氏の追討を命じられると、通盛に協力を求めて守護職を譲ったが、通盛はこの協力要請を無視していた。 すると清氏を討ち取った頼之は河野氏討伐に乗り出し、通盛は既に隠退していたが子の通朝は討ち取られた。 通朝の子通堯は九州に逃れ南朝方にいたが、康暦の政変(1379)で細川頼之が失脚すると、幕府に帰服し細川頼之の追討に加わった。だが頼之の奇襲に遭い戦死している。 その後、細川頼之が幕府から赦免されると、至徳3年(1386)に、3代将軍足利義満の仲介で河野氏は細川氏と和睦している。 閉じる 室町時代 河野教通の時代 室町時代に入ると河野氏は代々伊予守護を勤めるようになるが、通堯の後を継いでいた子の通義は、応永元年(1394)12月に25歳の若さで急死している。 病床の通義は、妻が懐妊中であったので生まれた子が男子であれば成人したときに家督を譲ることを条件に、弟で予州家(分家)の通之に家督を譲っている。 生まれた子が通久(幼名不明)で、約束通り成人したときに家督を譲り受けた。しかしこの相続に通之の子通元が反発したことで、河野氏は、通久の惣領家と通元の予州家との長い対立が始まることになった。 この頃、四国制覇を狙っていたのは幕府の有力大名である細川氏であった。細川氏は予州家を通じて伊予に進出しようと画策していた。 一方、中国の大国大内氏は、河野氏を豊後の大友氏との合戦に合力させるため、予州家の訴訟を停止させるよう幕府に申し入れ、細川氏を牽制した。 河野通久は、大内氏(持世)の要請に応じて豊後へ出陣し各地を転戦していたが、永享7年(1435)6月、豊後姫岳の戦いで大友持直に敗れて討死した。 家督を継いだ子の犬正丸は、将軍義教の偏諱を賜り教通と名乗り、将軍や大内持世に支えられて伊予守護を努め、父の後を受け豊後へ出陣している。 教通が、初めて上洛したのは永享10年(1438)11月であった。在京した教通は将軍の命で、鎌倉公方の持氏討伐や、大和や吉野などの戦いに動員されている。 教通が伊予に帰郷したのは、永享11年(1439)6月頃であった。将軍義教は、教通の軍功に報いるために近江の馬淵荘北方を与えたといわれる。 閉じる 河野惣領家の窮状 嘉吉の変 嘉吉元年(1441)6月、将軍義教が幕府の重臣である赤松満祐に殺害される大事件が起きる(嘉吉の変)、大内持世も負傷し一ヶ月後に死去した。 在京していた教通にとっては衝撃的な出来事であった。播磨に逃亡した赤松満祐は、追討した山名勢に討たれたが、教通も山名勢に加わっている。 この事件の後、幼い将軍が相次ぎ、幕政は諸大名だけでなく管領家の細川氏や畠山氏も自己の利害に囚われていった。諸国の守護家は有力大名を頼り対抗しあうようになったいった。 内部対立を抱えていた河野氏も、予州家の通春(通元の子)は、細川氏と結び、惣領家の教通は、畠山氏の支持を受けることになっていた。 伊予の国人衆は、何れの河野氏に加勢すればよいかわからない状態だったが、土佐守護でもあった細川氏は土佐側から勢力を伸ばし、山間部の大野氏・森山市・宇都宮氏などの在地豪族(国人衆)を通春方に組み入れていった。 享徳4年(1455)に、教通を支持していた畠山持国が亡くなると、管領の細川勝元が伊予守護の任じられ、細川氏は四国全土の守護になった。 教通は国内でも、通春方に敗戦が続いていたようである。長禄4年(1460)には、畠山義就が京を追われ河内に下向し、畠山氏の没落が始まると、教通は上洛し幕府に窮状を訴える申状を提出している。 閉じる 細川氏の伊予進出と大内氏の河野氏支援 寛正年間(1461~1466)になると、細川勝元は、河野予州家を排除して直接伊予の支配に乗り出してきた。勝元は幕府に働きかけて通春討伐の命令を出させると、大野・森山・宇都宮などの国人衆は河野氏に反乱を起こし細川氏を伊予に引き入れた。 河野氏の居城である湯築城に土佐守護代の新開遠江守が入城すると伊予国内は細川氏が席巻していった。通春は、京にいる教通の留守を守っていた弟の通生と講話を結び、予州家と惣領家が一体になり細川氏に対抗しようとした。 寛正6年(1465)になると幕府(管領は細川勝元)は、安芸の毛利・吉川・小早川氏などに伊予に渡り通春を討つよう命じている。大内氏(教弘)も、命令に従い伊予の興居島に上陸した。ところが大内教弘は、幕府に背き通春に加勢するうようになっていった。 理由は、大内氏は古くから河野氏と良好な関係が続いていたことや、地理的にも伊予は周防に近く、伊予が細川氏に支配され、瀬戸内海西域への影響力が強くなるのを懸念したためと思われる。 興居島に上陸し、河野方に加勢した大内教弘は、9月にこの島で病死してしまう。だが子の政弘は、河野氏支援の態度を変えず、興居島から四国に兵を上陸させた。 政弘は湯築城を攻撃させると、城を押さえていた新開遠江守を攻め滅ぼし、細川氏に従っていた森山氏など多くの反河野氏の国人衆も攻めている。 閉じる 応仁の乱と河野氏 嘉吉の変をきっかけに、自己保身に走っていた諸国の守護家は、やがて細川勝元を中心とする東軍と山名持豊(宗全)を中心とする西軍に収束していき、応仁元年(1467)になると、ついに両勢力は激突した。応仁の乱の始まりである。 乱がはじまった当初の河野氏は、惣領家も予州家も、細川氏に対抗するために大内氏に従い西軍であったようだ。大内氏は、周防・長門・筑前・安芸・豊前・石見・伊予の諸隊を引き連れて瀬戸内海を東上し堺に上陸したといわれる。 しかし文明3年(1470)の初め頃に京にいた惣領家の教通は、伊予に戻り東軍側に立っている。3月に西軍から教通討伐の命が出されている。理由はよくわからないが、西軍が予州家の通春を伊予守護の任じたのが原因かもしれない。 こうして河野氏は再び両家が対立することになった。東軍も文明5年(1483)11月に、教通を伊予守護に任じている。(教通は通直に改名していたが、以降も教通と記す) 伊予に戻った教通は、伊予国内の制圧に力を注ぎ成果を上げていった。一方通春は、京での合戦に関わり、国元を顧みる余裕はなかったようだ。 教通は、伊予の通春勢である大野・森山・重見氏らを攻めている。大野氏らは大内氏の支援を受けていたが、教通方が勝利したといわれる。 文明5年(1473)3月に山名宗全が、5月に細川勝元と、両軍の総大将が相次いで死去すると、双方の和平交渉が進み、12月には将軍義政も義尚に将軍職を譲っている。 文明9年(1477)に、畠山義就が京をさり河内に戻ると、大内政弘も周防に帰国し、西軍の主力軍が京をさると応仁の乱は終焉した。 通春も大内政弘と同じ頃に、伊予に戻ったようだ。通春は、大内氏の支援のもとに教通に挑み、一時は伊予半国を討ち取ったと、大内政弘に伝えているが、応仁の乱の最中から帰国し国内の諸勢力を組織化していた教通に敵わなかったようである。 応仁の乱を通じて伊予一国を支配する体制をほぼ確率させていた河野教通は、明応9年(1435)正月に湯築城で死去した。河野氏の由来を記した「水里玄義」を編纂させたのは教通である。 閉じる 伊予の安定 河野通宣(刑部大輔) 教通の後は、嫡子通宣が家督を継いでいる。文亀元年(1501)に幕府は、河野通宣をはじめ九州の大友・少弐・菊池・島津氏さらに安芸の毛利・小早川氏などに、大内義興を討つよう命じている。 これは、京で実権を握った細川政元が、ときの将軍義材を追放し新将軍義澄を立てるクーデター(明応の政変)を決行したが、義材はこれを認めず近江・越前などを放浪したのちに周防の大内氏のもとに入っていた。 幕府は、義材を庇護している大内氏を討てと命じたのである。通宣は、幕府から大内氏討伐を命じられているので、この頃は反大内氏であったようだ。 ところが、永正4年(1507)に今度は細川政元が家臣達に暗殺される事件が起こった。これを見た大内義興は義尹(義材から改名)を奉じて大軍で上洛した。 義興は、義澄と細川澄元(政元の後継)などを京から追放し、義植(義尹から改名)を将軍に復帰させ、管領に細川高国とつけると、自らは管領代として実権を握った。 この大内義興の上洛に、通宣も同行しているので、この頃には大内方であった。河野氏だけでなく毛利氏等の中国や北九州の大名たちも大内方になっている。大内義興は、約10年にわたって幕政を動かした後、永正15年(1518)に周防山口に帰国している。 予州家の通春は、文明14年(1482)に死去しているが、子の通元が通宣に敵対していたようだ、一時的には予州家が盛り返した時期もあったようだが、通宣が大内氏に接近したことで、予州家は力をなくしやがて衰退していった。 細川氏の勢力がいなくなり、大内氏と関係を結び、予州家も衰退した伊予では、多くの国人衆は惣領家の河野氏の配下に属し国内は安定していった。河野通宣(刑部大輔)は、永正16年(1519)に死去している。 閉じる 家臣団(山方領主・島方領主) 河野氏の伊予制圧にもっとも貢献したのは平岡氏だと思われる。平岡氏の出自はよくわからないが伊予郡と浮穴郡一帯に勢力を持っていた一族だと思われる。細川氏が大きな力を持っていた時代にも、配下に入らず徐々に勢力を拡大していたようだ。 細川氏の影響力が衰え守護の河野氏が台頭してくると、平岡氏はその配下に属し、永禄年間(1558~)になると平岡房実が家臣として活動している。房実の子たちは、河野氏の「通」を拝領し通資・通倚と名乗っている。 平岡氏は山方の領主であったが、島方領主では、防予諸島の忽那氏や二神氏、芸予諸島の来島村上氏や能島村上氏などが、瀬戸内海の島々を拠点として活動していた。 忽那氏は南北朝時代の後に早くから河野氏(惣領家)の配下にいたようで、細川氏とも戦ったいる。二神氏は、細川氏に属していたようで、応仁の乱の最中、河野教通が伊予を組織化しているときに配下に入ったようだ。 一方、芸予諸島の両村上氏は、河野氏との結びつきはあったが、自立的な領主であった。能島村上氏は能島殿と呼ばれ日本最大の海賊と言われていた。来島村上氏も強い水軍を擁する島方領主であった。 能島村上氏は、予州家に近く細川方として、惣領家と敵対していた時期もあったようだが、後に河野氏家臣団の一員になっている。来島村上氏は河野教通の時代に関係が深まったようで十六世紀後半には、河野氏権力の中心に躍り出ている。 閉じる 大内氏包囲網 河野通直(弾正少弼) 通宣が死去した永正16年(1519)に、嫡子通直(祖父の教通=通直と同名;弾正少弼)は家督を継いでいる。 大内義興が、10年振りに京から帰国したのは、山口を離れている間に出雲の尼子氏が勢力を拡大し安芸・石見に進出し始めていたことにあった。 また、安芸の武田元繁が大内氏への敵対をあらわにし、毛利・小早川・吉川氏も自立的な立場を取るようになっていた。 帰国した義興は、安芸の武田氏・出雲の尼子氏・豊後の大友氏などと合戦を繰り広げ、大内氏と反大内氏が対決するようになっていった。 戦いは、伊予にまで及んでいる大永2年(1522)7月には、大内氏か武田氏の何れの兵か記録にないが伊予の大三島に来襲し、来島・重見などの伊予勢と戦っている。 翌年には伊予府中の正岡氏が河野氏に反乱を起こしている。これは通直が来島・重見氏に命じて鎮圧させている。正岡氏は大内氏の支援を受けていたようだ。 大内義興は、安芸制圧を目指して岩国に着陣していたが、享禄元年(1528)に陣中で病み帰国したが、12月に山口で没した。 義興の後継の義隆は、豊後の大友氏との合戦に力を傾注させていった。安芸は大内氏と結んでいた毛利氏が尼子氏に対立していた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この頃、大内義興が帰国した京では、将軍義植が管領の細川高国に追放され、代わりに前将軍義澄の子義晴が将軍に就いていた。 だが、義晴も細川高国と対立し、三好元長らに京を追われて近江に逃れていた。義晴は、豊後の大友義鑑など多くの大名に京へ戻る支援を再三要請していたという。 豊後の大友義鑑は義晴の要請を背景に、肥前の少弐氏や安芸の武田氏・出雲の尼子氏と申し合わせ、さらに河野氏・能島村上氏・宇都宮氏などの伊予勢を巻き込み大内氏包囲網を画策した。河野通直も義晴の呼びかけに応じて享禄4年(1531)上洛している。 通直の妻は大友氏の出であり、この頃の河野氏は大友氏と密接に結びつき反大内氏であったようだ。 大内義隆は、この包囲網を打破すべく各地に軍勢を侵攻させていった。天文3年(1534)4月には、豊後の勢場原で大友軍と大規模な衝突が起こっている。 通直は、天文4年(1535)に居城の湯築城を二重堀と土塁という大規模な防御施設を施し平山城化している。これは大内氏の襲撃に備えたものと思われる。 大内義隆は、自らの立場を有利にするために、莫大な献金を朝廷や幕府さらに将軍にも送り接近を図っている。大内氏が豊前・筑前・筑後・肥前と北九州に勢力を広げていくなか、天文7年(1533)に将軍義晴が大内・大友氏に和睦を勧めた。 大内氏の圧倒的な軍事力の前で大友氏は和睦を受け入れざるを得なかった。大内義隆は、抵抗を続けていた少弐氏を打ち破り少弐資元を自害させると軍勢を九州から安芸に転じていった。 天文9年(1540)8月には忽那島、翌年には三島・能島・因島などの芸予諸島が大内勢に侵攻され、河野氏も防戦しているが、河野氏の統率力は次第に、弱体化していった。 閉じる 河野氏の家督騒動 天文伊予の乱 大内氏が防予諸島や芸予諸島に進出して来る中で、天文伊予の乱と呼ばれる河野氏の家督を巡っての内戦が起こっている。 通直には、嗣子がなかっために、氏族や老臣たちが予州家の通政を迎えようとしたが、通直はこれを拒否し娘婿の来島通康(来島村上氏)への家督継承を図った。 だが、氏族や老臣たちはこれに反発し内戦にまで発展し、湯築城を包囲された通直は、来島通康に連れられ来島城へ逃れた。 家臣団は、通政が家督を継ぐことを条件に、通直・来島通康と講和が結び、二人は湯築城にもどった。だが、晴通と改名した通政は早世したため、弟の通賢が家督を相続したが、まだ幼かったために、通直が後見し政務を執ったという。 また、別の史料では、通直には嫡子晴通がいたが、二人は対立していて氏族や老臣たちが晴通方につき湯築城を包囲したため、通直は、来島通康に連れられ来島城へ逃れた。 その後、来島通康と晴通方が合戦になったが、通康が勝利し、通直は湯築城に戻った。晴通とは講和するが晴通が早世したため家督は弟の通宣(左京大夫)が継承した。と書かれている。 家督を巡り内戦が起きたことは史実のようだが、二つの史料の内容は微妙にちがう、共通しているのは、通直は来島通康に助けられ来島城に逃れたこと、家督は、通直→晴通→(通直)→通宣(又は通賢)と継承されていることだ。 また、講和の後、来島通康は越智姓と家紋が許され河野氏の氏族になったのも史実のようだ。最近の研究では、晴通と通宣は、通直の実子だった可能性が高いといわれる。 閉じる 天文伊予の乱の原因 大内氏との講和 乱の原因の一つは、来島通康と河野氏の氏族や老臣たちとの対立だ、来島通康は強大な水軍を保持し大内氏の侵攻を食い止めている。 通直は、来島通康に娘を娶せ、通康を信頼し頼りにしていた。だが新興の家臣でありながら当主の信頼を得て影響力をます通康に、氏族や老臣たちが危惧を持ち、通直・通康の排除・失権を企んだこと。 二つは、豊後の大友氏が大内氏包囲網から離脱したあとも河野氏は反大内氏でいたが、その頃の大内氏は、毛利氏を攻めた出雲の尼子氏を撃退すると、安芸の武田氏や友田氏を滅ぼして大内包囲網を撃破し、さらに出雲まで尼子氏成敗に出陣しようとしていた。 河野氏は、完全に孤立しており、芸予諸島は度々大内氏の侵攻を受けていた。このことに不安を感じていた氏族や老臣たちは大内氏と手を結ぼうとしたのではないだろうか。おそらくこの二つが重なり、さらに大内氏からの調略もあったかもしれない。 通直が、来島城へ逃れたのが天文11年(1542)3月頃で、湯築城へ戻り政務を執り始めたのは翌年の8月頃である。大内氏が出雲遠征に出陣したのは、天文11年(1542)の年末であった。 伊予の乱の後も、大内氏の伊予侵攻は収まらず、天文15年(1546)から16年頃には、芸予諸島は概ね大内勢の制圧下にあった。 能島村上氏は来島村上氏とともに、最前線で大内氏と戦っていたが、この能島村上氏に家督紛争が起こっている。天文15年(1546)11月に、当主能島義雅が死去すると、後継を巡って、義雅の子義益と、義雅の弟の子武吉が争った。 この内紛は、嫡子でない武吉が勝利し家督の座についている。武吉を支援したのは叔父の隆重で、隆重は大内義隆の偏諱を受けており、能島一族の中では大内氏と結ぶ勢力であった。ちなみに能島武吉はのちに日本最大の海賊としてその名が残っている。 天文16年(1547)中頃になると大内氏と河野氏との合戦は無くなっている。この頃に両氏は講和したようだが、実質河野氏は大内支配下に入ったのではなかろうか。 伊予の乱のあとも河野通直と来島通康は河野氏の中心にいたが、家中への求心力は低下していたとおもわれる。 閉じる 大内氏の滅亡 河野通宣(左京大夫) 家督を継いだ通宣(幼名不明;左京大夫)が幼少のため通直が後見し政務を取り仕切ったといわれるが、その期間は相当長く、天文20年(1551)から21年頃まで続いてようだ。通宣の名のみで河野文書が発給されるようになるのは天文22年以降である。 通直は後見ではなく当主であり続けて、この時期に家督が譲られたのかもしれない。それとも後見の間も氏族や老臣との間で対立が続いていたため、通直は政権を離せなかったのかもしれない。 河野氏の当主が通宣への移行が始まっていた天文20年(1551)8月に、大内義隆が家臣の陶隆房によって討たれるクーデターが勃発すると、西瀬戸地域は大きく情勢が動いた。 大内氏の実権は陶隆房が掌握したが、天文23年(1554)になると安芸の毛利元就が陶晴賢(隆房から改名)に敵対し、やがて両者は厳島で雌雄を決することになった。 決戦の地に厳島を選んだのは元就だ、陶の大軍を相手に戦うのは狭い島内が有利であったからだと思われる。 弘治元年(1555)9月、陶晴賢は大軍で厳島に上陸した。このとき元就は来島村上氏など瀬戸内海の海賊衆に来援を懇願していたが、なかなか現れず焦っていたという。9月28日になってようやく来島村上氏などが軍船を率いて来援した。 毛利軍は、暴風雨と夜陰の中を厳島に上陸し、翌10月1日に陶軍と戦闘になり大勝した。陶晴賢は自害して果てた。毛利氏は、安芸・備後に加えて周防・長門を支配する中国の覇者として躍り出ることになった。 大内氏の滅亡は、河野氏内部で先代から続いていた大内・反大内の対立に大きな影響を及ぼす事になった。 閉じる 毛利氏と来島通康 来島村上氏の当主来島通康は、先代通直の娘婿であり、絶えず通直方として行動していた。通宣に代替りしてからの立場は不明だが。通康が救援した毛利氏が勝利したことにより、激変したのではないだろうか。 通康が、強大な軍事力を持つ陶晴賢より弱小の毛利元就を支援したのは、大きな賭けだったと思われる。出陣までに時間や逡巡があったのは当然か、また河野氏の了承は得ていたのであろうかわからない。 厳島合戦以降、来島村上氏は毛利氏と密接な関係を築いていったようだ、これは毛利氏と河野氏との関係の始まりでもあった。毛利元就の孫娘(宍戸隆家の嫡女)が河野氏に嫁していることも、その関係がうかがえる。 だが、この頃から通宣の存在が表立ってわからなくなっている。関係する史料から推測すると、病気だったと思われる。治療のために上洛していたともいわれ、しかもこの上洛に来島通康が付き添っている。通康は河野家中で中心的な立場になっていたようだ。 南伊予の土佐との境目の地域では、土佐中村の一条氏が南伊予の西園寺や宇都宮氏などと婚姻関係を結んでいて、永禄8年(1565)以降には、一条氏は伊予への侵攻を繰り返し、河野氏との間で紛争が生じていた。 永禄10年(1567)からの戦闘では来島村上氏や平岡氏が河野氏の軍勢として加わっている。さらに、毛利氏(小早川)が援軍を派遣している。 毛利氏が渡海して伊予道後に入ったときに通宣へ嫁いでいた宍戸隆家の娘が出迎えているが当主の通宣の姿はない。この頃には、伊予にいなかったのか、また出迎えが困難な病状だったかもしれない。 厳島合戦から10年が経っていたが、元就はこの支援を「来島恩おくり」といい、厳島来援の恩義を忘れていなかったといわれる。来島通康は、同年10月はじめに病気のため道後に帰還したが23日に亡くなった。 通康の死は、河野氏にとっては大きな痛手であっただろうし、毛利氏との関係も変化していったと思われる。 閉じる 河野通直(牛福;伊予守)と毛利氏 永禄11年(1568)に、河野氏の当主は通宣から幼い牛福(後の通直;伊予守)に代わっている。牛福の母は宍戸隆家の娘であり毛利元就の孫娘である。通宣が亡くなったのは、永禄13年と思われので、生存中に代替りしたのはなぜだろうか。 この年に、毛利方の小早川隆景・宍戸隆家と河野氏の家臣が数ヶ月に渡って交渉事を続けていたようだ、このような交渉が行われたのは、牛福の父の出自に関係があると言われている。 牛福の母は通宣の妻だが、父は通宣でなかったようだ。河野氏のどの史料にも通宣の実子と記されたものはないらしい。 ある説では来島通康だとしている。通康には河野通直(弾正少弼)の娘との間に、牛松(後の通総)という河野氏の血筋の子がいる。同じぐらいの歳らしい。 この牛福擁立に河野氏側で重要な存在となったのは、来島通康に代わり河野氏の家中で台頭していた平岡房実であった。 平岡氏は、先々代の通宣(刑部大輔)の時代には河野氏の家中で強い立場であったが、平岡房実との繋がりはよくわからない。(直系なのか一族なのか) 平岡氏は、能島村上氏と深い関係がある。能島村上氏の当主能島武吉の母は、平岡近将監の娘であり、武吉の次男の妻は平岡房実の娘といわれる。平岡近将監と房実の関係は分からないが平岡一族であるのは間違いない。また武吉の妻は来島通康の娘である。 牛福擁立期の河野氏の最大の実力者は、平岡房実であったと思われる。また毛利氏との交渉者の中には平岡通資(房実の子)の名がみえる。 毛利氏は、河野氏の後継に毛利の血縁者を擁立するために、河野氏との繋がりを、来島村上氏から平岡氏(及び能島村上氏)に変えたようである。 来島通総(牛松)は後に毛利・河野氏から離反し織田方についている。 天正9年(1581)に、成長した通直(牛福)は、毛利輝元の姪(吉見広瀬の娘)との婚姻が成っており、毛利氏と河野氏の結びつきの深さを思わせる。婚姻にさいし娘の出迎えの船は能島村上氏が出している。 閉じる 来島村上氏の離反 南伊予では土佐の一条氏の侵攻を受けていた金子氏などは、河野氏へ援助を頼んでも埒が明かないので小早川氏の支援を頼んでいる。一条氏も敵は小早川だと記している。 弱体化した河野氏は、毛利氏(小早川氏)と一体化が進んでいったようだ、周辺の諸国にもその認識は広がっていったようだ。天正10年(1582)には、毛利氏や小早川氏の家臣が湯築城に入り、伊予内乱の指揮を取るようになっている。 同年、来島村上氏の来島通総(牛松)は、河野氏から離反し織田方に寝返ったため抗争になった。翌天正11年にかけて、小早川氏の援軍を受けて河野氏は、来島勢と激しい戦いが繰り広げられた。 来島通総は来島を追われて逃れていたが、織田方の支援を受け帰還するとの噂が絶えず緊張が続いていた。 この抗争は、能島村上氏にも大きな影響を与えたようだ。当主の能島元吉(武吉の子)はこれまで来島通総と行動をともにしていた。織田方の誘いは来島通総だけでなく能島元吉にも再三に渡りあったようだ。 すでに堺から東瀬戸内海を押さえていた織田方と敵対するのは難しく、能島元吉は悩んだようだが、父の武吉は毛利方とつながっていたことや、河野氏からの強い要請もあり、離反することはなかったが、河野方に援軍を出すこともなかった。 能島水軍を欠いた河野氏は、ますます小早川氏に頼っていった。史料によると、通直の母は、「大方、仕出」と呼ばれ、河野氏弱体化の中で実質的な権限を持ち、毛利方との一体化を進めていたといわれる。 閉じる 河野氏の滅亡 天正12年(1584)になると、一条氏を滅ぼし土佐を統一していた長宗我部氏が伊予に侵攻してきた。長宗我部氏の武将久武親直は、国境を超えて南伊予の諸城を次々と落し、10月には西園寺氏の黒瀬城が陥落している。 北上した長宗我部軍は、小早川軍と激しい戦闘を繰り広げながらも、湯築城に迫り、危険を察した河野通直は家臣の意見を入れてついに降伏した。これは、土佐物語など土佐方の史料による話である。当サイト「土佐の長宗我部一族と元親の四国制覇」に記載。 だが、土佐側の資料にも、湯築城が陥落したとは書いていない。長宗我部元親の伊予制圧は、湯築城とその周辺を残すのみとなっていたが、直前に秀吉の四国征伐の大軍を迎える羽目になったのが歴史の真実ではないかといわれる。 天正13年(1585)6月、秀吉は四国討伐軍を発令している。3軍からなり総勢6万の軍容といわれる。一ヶ月後の7月25日には、長宗我部元親が降伏し四国は制圧された。秀吉は、伊予国を小早川隆景に与え、河野氏は滅亡した。 しかし、小早川隆景は伊予に在国することはほぼ無かった。旧国主の河野通直と家族は、湯築城を出ているが道後に住まいが与えられ、湯築城には河野氏の家臣だった者が多く残っており、伊予の国政は河野氏の協力のもとに行われていたようだ。 当時、伊予に滞在していた宣教師のフロイスは通直を訪ねており、いまだに河野氏の影響が強かったことを伝えている。 だが、この状況を秀吉はどう見ていたのであろう。天正15年(1587)に、小早川隆景は九州に転封されている。同じ頃に河野通直と西園寺公広が死亡している。金子氏は、天正13年に既に処分されている。 河野氏の家譜によれば、通直は天正15年7月9日に伊予を出国し有馬から高野山を廻り安芸の竹原へ居住したが病が高じて15日に死亡したとしている。僅か7日間で有馬の湯に入り高野山に参拝し安芸に入るなど不可能なので、この記載には作為が感じられる。 7月9日に秀吉は安芸の三原に滞在しているが、この時小早川氏は隆景はじめ家臣は九州に赴いていて三原には誰もいなかった。 隆景は、通直一家を九州に呼び寄せるために伊予に使者を送っているが入れ違いになっている。隆景は、通直の竹原移住を知らなかったようだ。 伊予には、福島政則と戸田勝隆が入り、完全に豊臣政権の領土になった。 閉じる これまで読んできた、鎌倉・室町時代を生き抜いてきた地方の多くの国主・守護や豪族は、戦国時代には戦国大名に脱皮している。 河野氏は、それが出来なかった典型的地方豪族のようだ。多くの武家で家督相続に関わる争いが起こり、勢力を衰退させる一因になっているが、河野氏も例外でないようだ。 大きく違うのは、戦国大名に脱皮した武家では、家督争いの中から力強いリーダーが現れていることだ。河野氏にはそれがなかった。 秀吉は、最後まで抵抗した長宗我部元親には土佐一国を与え大坂城に招き歓待しているが、なんら抵抗していない河野通直には領土没収追放という厳しい処分を行っている。さすが秀吉というべきか。 旧国名と都道府県名 読んだ本 ・白石成二著 古代越智氏の研究 ・松原弘宣著 古代の地方豪族 ・川岡 勉・西尾和美著 伊予河野氏と中世瀬戸内海世界 ・別府頼雄著 河野氏滅亡と周辺の武将たち 日本の歴史本を読んでみての一覧へ |
四国旧国名&勢力図 | ||
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